写真は俳句である:Elmar35仙人と撮影の禅

さて、AIとの会話が日常になりこのブログや思考の掃き溜めとして運用していたnoteも更新が停止して久しい状況。
しかしながら、いまだに多くアクセスをいただいている状態であることも非常に申し訳なく、また少しずつ頑張って書いていこうと思い立ちました。

そして、1年ぶりに記事を書くべく、鉛のように重くなった筆を手に取り今画面に向き合っています。

 

今回は、私がここ1年くらい考えている、現時点で体現したいなと考えている姿を書いて行こうと思います。

前回ののめ君は、カメラは詫び寂びだと言っているので、その続きのお話です。
それではいってみよう!

 

ちなみに久しぶり記事を書いたので、書き上げて読み直してみたらどこぞの書籍みたいになってしまったので、ブログ風にずいぶん要約しました。

それと、ナビゲーターによると読むのに66分かかるらしいので(そんなにかかるか?)、何が言いたいのかだけ知りたい方は目次の「あとがき」からどうぞ。

Contents

序章:写真は俳句である

まずは、この画像を見て頂きたい。

 

 

背景や被写体がかなり直接的なので、分かった方も多いと思う。

 

この画像はおそらく日本で最も有名な芭蕉の句、

「古池や 蛙飛び込む 水の音」

をAIに画像化してもらったものだ。

 

俳句が5・7・5の17文字に音や情緒・情景を込めるものならば、写真もフレームの中に心で見えた景色、つまりその気持ちを凝縮する行為であって、それはもう俳句だ。

俳句も写真もその詠んだ人間、撮影した人間の心を投影したものであって、その投影先が5・7・5か24*36mmかだけの違いでしかない。

 
野鳥、スポーツ、ポートレート、星景等々の様々なジャンルの写真全てに当てはまるわけではないけれど、私の写真は俳句になりつつあり、スナップや自然風景の撮影を好んでいる人には、割と共感してもらえるんじゃないかと思う。

 
日本においては漢詩や短歌という平安時代の言葉遊びから、神道や無常感、無心などの仏教を要素を取り込み発展を遂げた俳句の精神を、私たちは写真という手段を用いて気付かぬうちに表現していたのかもしれない。
短歌や俳句といった日本で育まれてきた美的感覚の延長線に実は私も立っているのではないかという仮説について、妄想を膨らませている。

 

アメリカではKodakが家庭用カメラを早くから普及させたけれど、幸福の象徴としての家族写真が中心であった。

一方でヨーロッパではピクトリアリズム運動のように、写真が絵画の代替ではなく「芸術的表現」として地位を確立させていったため、写真は社会の記録や個人の芸術的探究のための道具として重視され、アマチュアの中でも特に芸術的視点を持つ層に愛されていたというカメラの普及の歴史的側面からみてみるのも面白い。

 

日本では戦後の輸出産業創出期にカメラを作り始めてから高度経済成長による一般家庭への普及したという側面がある中で、四季があり、その中で育まれた文化、例えば夏には風鈴を吊って夏の風を爽やかに奏で、青い透明感のある金魚鉢で耳や目で涼を仰いでみたりとか、軒下に腰掛けたり雪見障子越しに自然を眺めて季節の移ろいを感じてみたりと、アニミズムの息づく日本独自の自然を愛でる文化が写真にも取り込まれていったのではないだろうか。

俳句が第二芸術であると言われるように、日本では写真が芸術として認められづらいのも俳句同様であり、「芸術するぞ」と気合を入れて行動する欧州とは異なる、それこそ呼吸をするように自然と芸術に触れているのが日本の良さであると思う。

 

 

濡ればしら 無言の街に 秋の音

 

俳句はできないけれど、東京という季語が失われつつある街に見つけるやや空気の冷たい静寂感と秋の訪れを感じた写真。テープの跡から孤独の人影を見出し、コンクリートの森の中で佇む孤独な人間と秋雨の哀愁が滲み出す。

  

松尾芭蕉は不易流行の精神でその名声に溺れることなく、変わらない本質(不易)と新しい表現の追求(流行)を行っていたように、私もまた自然や日常に謙虚であり続けながら純粋な心の目でシャッターを切りたいものだ。

 

私はエルマー35仙人になりたい。

2章:撮影の禅

日本的な仙人観を考えたとき、人里離れたところで悟りを開いて自然と同一化してるような印象が強く、そのような写真との付き合い方が美しいと感じていて、エルマー35仙人になりたいと思っている。

仙人は厳密には禅僧ではないけれど、この考え方は禅の精神と似た点が多いので、撮影の禅と呼ぶことにした。

 

禅の世界ではそもそも禅を文字で語る事自体ナンセンスであるけれど、撮影という活動からいかに内面的成長と深い満足感を得ることができるかということについて、撮影の禅という概念をもって考えていきたい。

 

この定義自体今私が日々の撮影行為を重ねる中で考えている最中でもあるし、先人たちが言葉は違えど、同じ意味の概念を獲得しているに違いないから、そういった方々からご鞭撻いただく必要もあるだろうと考えていて、あくまで現時点での私の意見を書いていきたいと思う。

 

まず、「撮影の禅」とは、撮影行為そのものが一種の精神修養であり、自己と被写体が一体化する瞬間を求めることであるとする。
禅といっても、よくイメージする座禅を組みお坊さんが肩にピシッとするあれではない。
撮影の禅の核心となる考えは「無心」と「一体感」だ。

 

意図と偶然の融合、そしてシンプリシティ

写真には決定的瞬間とか偶然を良しとする概念が根付いているけれど、自然を見渡せば、そこは常に偶然の重ね合わせであり、決定的瞬間が潜んでいる。
ここで言いたいのは、被写体をありのまま受け入れ、瞬間の偶然性を尊重する態度が大事であって、計算し尽くすのではなく、その場の光、影、空気感に身を委ね、偶然の美を楽しむことが「撮影の禅」ではないだろうか。
ピントが若干甘くなっても、光の揺らぎが予期せぬ美しさを生んでも、その一瞬をありのまま受け入れる姿勢で向き合っていきたい。

 

また、禅の考え方では、「無駄を省き本質を捉える」ことが重視されるけれど、撮影の禅においても、シンプルな構図やシーンの中の「余計なもの」を省くことで、対象が持つ純粋な美や存在感を写し取る姿勢も大切な思想であると思う。

自己消失を目指す

といってもこれらは普段から写真に取り入れている人も多いと思うので、ここからが本題だ。

 
俳句の話でもあったけれど、仏教の境地は「空(くう)」にある。

空 (仏教)
仏教における(くう、梵: śūnya [シューニャ]または梵: śūnyatā [シューニャター]、巴: suññatā [スンニャター])とは、一切法は因縁によって生じたものだから我体・本体・実体と称すべきものがなく空しい(むなしい)こと。空は仏教全般に通じる基本的な教理である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

全ての存在が固有の自分という自己性を持たず、相互に依存し合っていて、境界はなく全ては繋がっているという考え方。空=無限。

これが悟りの「空」の境地に達すると自己が消失し、自身は仏であり、空であり海であり宇宙であるという状態になるらしい。

 
撮影においても、自己が消失し、被写体との境界が薄れる感覚を持った経験が無いだろうか。いわゆるゾーンに入っているとか言ったりするやつ。超気持ちいいトランス状態みたいなやつ。
禅の修行が「無我」を求めるように、撮影者も自分の意図や作為を抑え、レンズを通して「そのままの世界」が映し出される瞬間を目指したい。
 

この街灯は横目で見て極めて「ツタ」な街灯だと思った。

 

「君は蔦か?」

この答えが街灯ともツタとも分からぬこの存在から聞こえてきたらあなたと被写体のシンクロ率はかなり高いに違いない。

街灯は蔦に巻かれて木の気分なのか?よく見たらストームトルーパーか?いや、むしろ街灯が蔦であり、蔦はストームトルーパーであり、ストームトルーパーは私であり、空である。すべては繋がっている。

 

残念ながら私はこの写真で街灯との境界を取り除くことができたかといえば、そうではないが、街灯に心の中で語りかけてシャッターを切った。

 

では、目指すべき「そのままの世界」って何?って言う話を次に考えてみよう。

3章:撮影の禅の精神

結局のところ、撮影は自分が見ているもの見せたいものをカメラという道具を使って写し取っているという行為であるということになる。
なので、自分が見えている景色がクソならどんな小手先のテクニックを使ってもクソだし、自分の心の修練度が上がれば、視点そのものが自分を体現し素晴らしい写真になるとも言える。
いかに自分が自然を見えるようになるか、その自分が見ているもの、つまり自分の心の中で何を感じればよいのかを考えてみる。

無常の美:変化し続ける世界を受け入れる

禅風に言えば、無常の美とは、すべてのものが「一瞬一瞬で姿を変え、二度と同じ状態には戻らない」という仏教的な無常観に基づく美意識となる。被写体や光の状態は、地球が自転を止めない限り毎瞬異なる姿を見せてくれる。

 

誰が言ったかは知らないが、「ああ、世界はこんなにも美しい!」という心の叫びについて、私も激しく同意できる。
無常の美は、同じ対象が二度と同じ形で存在しないことに敬意を払い、写真がその一瞬を永遠のものとして残すという、禅的な「儚さ」を写し取ることを目指す思想であり、これにより「一瞬の儚さ」に心を寄せ、その瞬間の価値を静かに受け入れることができる。

即興の美:その瞬間の出会いと自由な表現

即興の美は、撮影者が構図や計画に縛られず、その場の状況に身を委ねて生まれる「一瞬一瞬の偶然性」を楽しむ美意識と定義する。被写体の動きや光の変化、影の揺らぎなど、予測できない瞬間を受け入れ、そのままの状態で表現することを指している。
即興の美は、予定・予想といった思考を超えた「予測できない要素」に自分を開き、心が動かされるままにシャッターを切る行為ともいえる。
これは、禅における「その場その場の流れを受け入れる」精神とも通じており、「他力本願」の思想を体現しているとも言える。
写真の中で被写体と撮影者が偶然的に出会う「瞬間の真実」をまずは心で捉えられるよう修養を深めていきたい。

自己との対話

自然の美しさを感じることができたら、その自然と繋がることを目指す。
被写体と自身の境界をいかに溶かすか、視覚だけでなく内面も通わせることができるか。
この被写体と自分の心の間にいる変換器が、いわゆる「カメラ」であり、「レンズ」であることを知ろう。
心と自然を中心に持ってくることで、自ずとその道具の使い所、使い方を知ることができるのではないだろうか。
あなたは、ライカやオールドレンズに踊らされていないか?道具に写真を撮らされていないか?
もちろん私も道具に使われてきた一人であることは言うまでもなく、誰もが最初から道具を執着なく使うことは難しいと思う。
 

心の修練を重ねて心の防湿庫を最大化すれば、こんなおっちゃんになれるはずだ!

 

では、次にそんな道具との向き合い方を今一度考えてみよう。

4章:心とレンズ心と光の交瑳

では、カメラとか何か、レンズとは何かについて考えていきたいと思う。
カメラという道具、レンズという道具、道具という変換器について、要素を分解して見てみたいと思う。

レンズが映すのは「心の風景」

視覚体験と内面の延長としてのレンズは、単なる風景ではなく「心の風景」を映すものとして機能する。
レンズが本来持つ独特の色調やコントラストが、自身の感じた感情や情景を補完する役割となる。
私が好きなオールドレンズで言えばその特性が生む微妙な揺らぎや柔らかさが、現実の風景に心のフィルターを通したような写真を作り上げるので、単に現実を写すだけでなく、心が感じる情景をそのまま残すという目的に非常に重要な自然に対するエフェクターともいえるし、心のチューナーともいえる役割を果たしてくれる。
当然、焦点距離にも同じことが言えて、遠い目で見たい時はその気分に合わせて50mmや75mmを選択すればよい。

ファインダー:光と心を通す窓

この「窓」の役割は、外界の見え方を限定的にしつつ、撮影者の内なる世界や感情が加わり、自己と世界が一瞬で重なり合う瞬間を作り出してくれる。禅的な撮影においては、自己の意識や心が、そのまま自然に光と一体化するための「純粋で透明な窓」が理想であるといえ、レンズを通した光が直接心に届き、被写体との一体感や深い共鳴を感じる瞬間が重要になる。

撮影の禅において理想的なファインダーとは、「視覚を支配するものではなく、視覚の一部となるもの」であり、被写体との境界が薄れる感覚をもたらしてくれる。
レンジファインダーのような光学ファインダーや等倍の視差を持つシンプルなビューファインダーは、撮影者の目そのものが「心と光の通り道」となる一方、レンズの光を通った撮影結果まで見通すことはできないので、そのレンズとの修練を深めて、あらかじめ心の中でそのレンズの描写を想定できるようになることが重要であると言えるかもしれない。
一方、EVFやライブビューのようにファインダー内にデジタル処理や過剰な情報が入ると視覚の純粋さが分断され、禅的な一体感が阻害されるので、シンプルな設計のカメラが必須になるものの、シンプルで違和感の無いEVFは撮影後の姿を覗くことができるため、その場で心の景色との差分を確認できる良さがある。

私の撮影の禅的道具

レンズは「視覚体験と内面の延長」として、自分の視点に寄り添う描写や収差が重要だ。
例えば、情緒や情念を映し出すオールドレンズは柔らかさ、収差、コントラストの低さが「揺らぎ」や「曖昧さ」を生むため、その人がそう見えているならば最適な選択肢になるし、 逆にMTFがバキバキに良いレンズは対象をあるがままに捉える透明さが、現実をそのまま受け入れる姿勢も禅の精神に通じているといえる。

なので、ニコンよりライカというわけでもないし、現行よりオールドレンズというわけでもない。どっちでもいい。
重要なのは自分の視点。心とそのレンズを使うことで同じ景色を得られるかというところにある。

目が良くないという自認から来る選択

実は目がそんなに良く無い。両目で0.4くらいかな?しかも色弱だ。
でも、補正して生きたいなんて思いもしないし、困ったこともない。

 

世界は見えすぎないくらいが丁度良い。」とかスカしていたら、妻にBUMP OF CHICKENのボーカルの藤原基央さんが似たようなことを言っていたと教えてくれた。

 

そう、世界の見え方とか見たい景色なんて人それぞれ違うし、なんならその時の気分でも全然変わってもいい。
だから、レンズはそれに合わせて変えていけばいいし、逆に見たい景色に合わせて自在に心のフォーカスを変えることができるようになれば、オールドと現行を一緒に使ってもなんら問題はない。

 

レンズの描写が撮影者の心情に沿ったものであれば、撮影者の内面と視覚体験が自然と一体化する。つまり、自分が感じたままを映し出せるレンズを通すことで、シャッターを切る瞬間が「心が映る瞬間」になる。

 
35mmは選択肢が少ないので、私が気に入っている50mmのレンズで例えると、Summarのような低コントラストのレンズは、心に浮かぶ曖昧な情景や遠い記憶を写す「感情の延長」として機能するし、。一方で、Heliar Classicのようなわずかに収差を含んだものは、少しのゆらぎが「現実を超えた心象風景」を描き出し、自身の「心の延長」として映像に深みを与えてくれる。

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ただ、このレンズを使ってボケの形に一喜一憂してはいけない。
そのためにも、自身の身の丈に合うレンズであるというのも非常に重要であると言える。

 

Hugo Meyer Kino Plasmat 50mm f1.5

 
たとえば、この写真を撮影したレンズは、Hugo Meyer の Kino Plasmatという。
価格は約1000万円。どうだろう。もしこれを全財産叩いて買ったとして、レンズすげーという心の浮つきを一切排除して道具として使えるだろうか。
そういう意味でも、高価なレンズは自身の心を拡張してくれるけれど、それと同時に、そういった価格のバイアスを乗り越えるための修行が必要であると思う。

 
私も100万円くらいまでのレンズまでは散々使ってきたので手足のようになんの感情も抱かずに使うことができるけれど、流石に1000万円は無理かな。

 

そして、なぜエルマー35仙人なのかといえば、それが私に丁度いいからという理由のそれだけだ。

 
私が一番好きなレンズはSummilux 35mm f1.4 1stで、50mmよりもに35mmは私が最も自然に使うことができる画角であることが大きいのだけれど、なぜエルマーかといえば、流石に私の視力はSummiluxほどボケても滲んでもいないというのが少し過大表現であるかなと思ってしまう気持ちがまだ拭えていないという気持ちもある。

 
そんな私もエルマーの良さが分からないと言いながら向き合い続けてそろそろ5年になるかな?

 

 

数年、エルマー35展を通じてこのレンズに向き合ってきたこともあり、ようやくエルマーの丁度良さが色々と感じられるようになってきたことも大きい。
このレンズもう6,7回買い替えてるし、全回転もニッケルもヘビーカムも、コーティング有無も、大体全部使った。そういう経験からくる理解もある。

SIGMA fp + LVF-11という選択肢

 
一方で、M型ライカ以外にも多くのカメラをここ数年試してきた。ライカSもそうだし、NikonZ5,Z8,Z9,CanonR5,R6,R3といった今風のも使ったし、スナップ機のNikon Zfも、Panasonic Lumix S9も使ったし、MFTもフィルムのCONTAXも使った。
その間にSIGMA fpも fpLも使ったし、なんならSIGMA fpは4回くらい買っては売った。

 
そしてたどり着いたのが、Sigma fp + LVF-11という形。

 

 

この外見から見向きもしていなかったんだけれど、実はこれ、35mm-40mmあたりのレンズで使うと、ほぼ等倍になる。
そして、ライカのように左目を明けて撮影すると、あら不思議、ファインダーの巨大さが35mmでの自然な視野を提供してくれるので、現実とレンズ越しの世界が重なり、心地よく一体化する感覚、まさに心と光を通す窓になってくれる。
ライカと違って心の風景が右目、現実の自然が左目から取り込むことができるので、違和感の少ない写真を撮ることができることがとても気に入ってる。

 

fpのEVF表示はシンプルでハッセルブラッドのスクリーンのように大きいので使っていて気持ちいい。

 

おまけに、SIGMA fpは軽くて、このたいそうなLVF-11をつけているにも関わらず、LEICA M10やNikon Dfと重量は変わらない。

この話を何人かに力説してもあまり共感は得られなかったけれどね。笑

 

まぁでもこの構成はあくまで現時点の形であって、常により体に馴染む構成は模索し続けている。

今使っているヘリコイド付きのマウントアダプターも最近出たばかりのものだし、なぜこれを選んだかというだけで記事が一つ出来上がってしまうので、今回は程々にしておく。

 

あと数年SIGMA fpで修行をしたらまたライカメインに戻すつもりではいるけれど、今のところ35mmを撮影するのはこれが一番気持ちいい!というのが私の感想。

色彩のコンプレックスとモノクローム

そして、私はモノクロばかり撮る。正確にはカラーにあまり自信がない。

 
モノクロで撮影することは、色弱という色彩感のコンプレックスから来ているのだけれど、これは「仙人観」にとっての核心に近い体験ともいえる。

 

モノクロ写真はそもそも写真としては大変不人気なジャンルだと思う。

少なくても我が家では家族写真をモノクロで撮ると大変嫌な顔をされる。(心の中で、「ごめんよ、このカメラモノクロしか撮れないんだ・・・。」と何度謝罪したことか)

 

しかしながら、少し写真を齧った写真家ならば、むしろモノクロは好ましく感じているだろうし、そのモノクロだからこその表現の自由さには取り憑かれるものがある。

 

 

モノクロ写真は、色を排除することで光と影の本質を浮き彫りにしてしまう。

例えば、夕暮れ時の影が長く伸びる都会の路地をモノクロで撮影すると、色彩がない分、影のコントラストや光の角度、テクスチャーが際立つ。この色に縛られない純粋さが、禅的な「本質に迫る視点」と重なり、私の心を揺さぶってくれる。

 

モノクロは、色彩に頼らない分、構成力と濃淡の強弱が勝負となり、禅の世界の「無駄を省いた美意識」と共通するところがある。
モノクロの限られた表現で情景や感情を伝えるというプロセスが、視覚的に「見える」世界よりも、心の内面を映し出すことに集中できるため、仙人的な深みが生まれるのではないかと思う。

 

ちなみに全部カメラ本体のモノクロjpeg撮って出し。

仙人は一々Lightroomで現像なんてしないのだ。(これは私がただのものぐさなだけ)

終章:カメラ寂びて 写真も詫びて

2年前には「侘び寂び」について考えていたけれど、そこから写真と日本的美意識感の融合について、色々考えていた。
写真は写真のフレームの中に意識が行きがちだけれど、その根底には人の心があり、それをフレームに収めるための撮影プロセスが重要であり、そのフレームに収められた人の心は自然、そして宇宙と繋がっている。

 

私たちにはいつからか分からないけれど自然に意識に溶け込んでいる日本独自の美意識として、侘び寂びやもののあはれといった「静寂で控えめな美」を愛でる感性があり、それが写真にも反映されているはずだ。
撮影の禅による禅的な写真には、余分、これは構図とか技術的な話に限らず、承認欲求とかそういう心の邪念を削ぎ落として「ありのまま」に焦点を当てることで、淡々とした美が宿るのではないかと思う。

例えば茶道は、禅の精神が色濃く反映された日本の伝統文化であり、「一期一会」の考えに基づいて、その場の一瞬一瞬を大切にすることを教えてくれる。

 
茶道では、お茶を点てる作法一つ一つが無駄のない動作であり、心を静め、目の前の茶や客と一体となるような時間の流れが強調されているし、その道具についても茶器でいえば唐物の弩級品ともいえるKino Plasmatのような国宝級レンズから、千利休が生み出した寂びれに良さを見出した道具のようにElmarのような経年による美しさが光る手頃なレンズまでいずれの道具もその使い方を教えてくれる。
「撮影の禅」も、シャッターを切る瞬間に心を集中させ、被写体と自然に一体化することを目指す行為であることから、撮影者が道具や構図に囚われず、「今ここ」に意識を置き、心と光を通じて被写体と一体になる態度は、茶道の「無心で茶を点てる」心構えと共通しているともいえ、日本的美意識感を体現するプロセスとして茶道は大いに勉強になる。

 

また、「もののあはれ」は、日本文化特有の「感情や情緒が呼び起こされる瞬間」を尊ぶ感性で、自然や季節の移り変わりに対して、儚さや美しさを感じる心の動きを指している。たとえば、散る桜や夕暮れの景色に対して、胸が締め付けられるような感覚が「もののあはれ」であって、「無常の美」「即興の美」を表現してくれる日本の素晴らしい価値観のひとつであると考えている。

 

日本の美意識として例に挙げた「茶道」「侘び寂び」「もののあはれ」は、いずれも目の前にある一瞬の姿や時間の移り変わりに対する謙虚な態度を重んじ、「変化し続けるものの中に宿る真実」を見つめる精神を育んでくれるもので、 これらの美意識が、「撮影の禅」「無常の美」「即興の美」と相互に響き合うことで、写真撮影が単なる視覚的記録ではなく、心の内面と自然の瞬間が共鳴する美しい体験と昇華させることができる。
茶道のように自己とレンズ、そして被写体が一体となることを目指し、侘び寂びや無常の美を通して一瞬一瞬の価値を見つめ直し、そして、もののあはれを感じる即興の美が、撮影者の心に深い印象を刻んでくれる。
このように、撮影の禅を通して日本の美意識が写真の中で表現されることで、一瞬一瞬を永遠に繋ぎ止めるような「心の写真」が生まれるのでじゃないかと思う。

 

そして、撮影の禅はその名の通り禅の修行を参考にしているので、いずれも悟りの境地とつながり、「自己と現実の境界が溶け、一体となる」経験を目指している。
侘び寂びやもののあはれといった日本の美意識が、私たち日本人にとって「自我を超えた静かな心の在り方」を促してくれると信じていて、自然の儚さや瞬間の一体感を楽しむことで、心が解放され、悟りの一端が垣間見えるのではないかと期待している。

 
悟りの境地とは、道具や風景を超えて「自分の心が目の前の一瞬に完全に融和する」状態であり、写真や俳句、茶道を通じて得られる一体感が、悟りに近い体験をもたらしてくれるはずで、こうして歴史的な日本の美意識と撮影の禅が結びつくことで、「一瞬の美」を通して心の安らぎと自己超越が得られる状態、すなわち「空」の境地へと至るためのプロセスが撮影の禅というわけだ。

 

 

・・・

 

 

私たちはなぜ、写真を撮影するのか。
それは、「気持ちよくなりたいから。」
ではないでしょうか?

しかし、この「気持ちよさ」とは、瞬間的な快感ではなく、目の前の自然や光、被写体との一体感から湧き上がる深い満足感であり、承認欲求や外的評価とは一線を画したものです。「撮影の禅」を通じて得られるこの純粋な悦びこそが、私たちが写真に取り組む本質的な理由なのではないでしょうか。

あとがき

1万字近い長文にも関わらず、読んでくださりありがとうございました。
この撮影の禅の体系化によって、ぜひこの考え方を共感いただけた方にも試していただきたいと思います。
結果や他者からの評価を求めず、ただ目の前の瞬間と一体化することで、現代の写真を嗜む人が抱える多くの悩みを超える境地に至ることができるのではないかと思います。

 
私自身、「いいね」のためにSNSに写真を掲載したり投稿することを昨年あたりからやめました。
生成AIによる大量生成や、SNSでの「いいね」に依存する承認欲求が蔓延する中で、禅的な撮影は、こうした外的な評価から自由になり、内なる静寂と純粋な悦びをもたらしてくれます。

 

撮影の禅によって得られる「悟りの境地」は、オーケストラでの演奏者の体験と似ています。

私は小さい頃から音楽を習っていて、学生時代は吹奏楽部でした。
オーケストラの中で、演奏者たちは目の前にある譜面台に乗った楽譜を超え、指揮者や他の楽器の音に意識を合わせながら、全体の流れの中に自分の音を溶け込ませていきます。このとき、演奏者は「自己」から解放され、楽器を演奏しているという感覚を忘れて、音楽そのものとなる瞬間があります。
自分が出す音が、他の演奏者の音と一つのハーモニーを形成し、互いに影響し合いながら、全体が一体化する瞬間が、最高の快感になります。

 

撮影の禅においても、撮影者が目の前の瞬間と完全に調和し、自己の意図や評価から自由になることで、被写体や自然と一体となることができるはずです。
オーケストラで一人の音が全体の音と調和しながら、自己を超えた壮大な一瞬の音楽を作り出すように、写真家もレンズ越しに被写体と溶け合い、純粋にその瞬間と響き合う悦びを感じることができると信じています。

 

一方で、自己と向き合ってばかりでもいけません。
禅の世界の教えには、修行は一人で行うなというものがあります。
これは、仏教の世界に「Don’t thnk. Feel…」という基本理念があるからです。
答えは文字にはないぞ、自分で感じた先にあるということです。

 

誤った道を邁進してしまうと、人生を捧げても悟りの境地には辿り着けないということです。それは困る。

 

そこで、禅の世界ではその師や仲間たちと共に修練するように修行法の書に記されているそうです。
これは写真の世界でも当てはまっていて、SNSから離脱して一人世界に閉じこもってしまっても、それが正しい方法であるかは分かりません。
一方で同じ志を持つ仲間と、写真に対する意見を交わすこと、写真展に参加することなどは、自身の撮影の禅の境地を目指すためには非常に重要なことであると感じています。

 

俳句のような日本的価値観に基づく精神との対話も重要である一方、執着からの解放を目指す撮影の禅では意味を持たない、写真が「上手い」、「下手」という二元的概念も実際にはとても重要なことです。

それは直接的に見れば、表現に芸術的付加価値を加えることで、より他者との共感・悦びが生まれること、そして禅的行動においても無心となるための撮影行動のためには、技術を意識しないことが理想であり、そういった技術は常に自身の深いレベルまで落とし込んで考えなくてもできるレベルまで技術力を磨くこともまた重要であるからです。

 

 

私は、写真家の加納満さんが開催しているエルマー35展に毎年参加させて頂いています。

これは、エルマーという極めて道具について考えさせられるレンズ縛りであり、トリミング禁止ということで自身の心と表現について考えさせられること、そして何より、参加者各々がバチバチせずそれぞれの良いと思う写真を持ち寄りそれについてPaper Poolという場でコーヒー片手に語り合えるという機会が大変ありがたいと感じます。

 

 

残念ながらPaperPoolの営業終了に伴い次回以降は別の展示場所で開催されますが、それでもこの展示の意義に変わりはありません。

 

 

過去の作品は図録という形で加納さんが残してくださっていて、これもまたとても勉強になる内容です。

https://kanomitsuru.stores.jp

 

毎年夏に展示に会がありますが、もし展示を見に来られる方はそういう視点で見ていただくととても面白いと思いますし、なんなら参加してしまうというのもとてもおすすめです。(展示会後にその会で終了するメンバーの分のみ若干名募集するという形です)

これも加納さんをはじめとする主催の皆さんのご尽力で続いているので、いつまで開催されるかは分かりませんが、そのほかにも様々な写真展があると思うのでぜひ色々な写真展を見て参加されてみるのもよいかもしれません。

 

この撮影の禅という概念は自然・生命・人工物に限らず、あらゆる存在に憧憬を抱き、自身をその相手に委ねることで、生を実感し感謝することができます。

今日という日が訪れたこと、隣にいる家族の存在、そしてそんな相手に自分を委ねてシャッターを切れること。今あるものは無常で当たり前でないことを常に実感することで、幸福な人生を送るための方法論になるのではないでしょうか。

最後に臭い話になってしまいました。それでは。

 

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