写真のアート性と、スナップ写真家の息苦しさ。

こんにちは!前のめり(@maenomelife)です!

 

今回、富士フイルムが新製品のプロモーションの一環で公開したスナップ写真家の撮影風景について、多くの場所で非難を浴びています。

 

結果として、富士フイルムは不快な動画であったと認めプロモーション動画を削除し、謝罪。

当の写真家はTwitterアカウント非公開化による逃亡という結果になりました。

 

この件については、多くの議論が巻き起こりましたが、私自身スナップ写真家を名乗る端くれであり、自分で言うのもなんですが日々写真の表現の拡大の為、アートについて学んだり思考を深めています。

 

そんな中で、改めて写真というものに対する私の価値観をまとめてみたいと思います。

 

富士フイルムについて

このあたりは散々議論されているので、さっとだけ。

 

動画を見た瞬間に呆れました。

 

動画の中では、撮影される一般の方達が顔を背けたり、進路をふさがれたり、彼の撮影を嫌がっているのはだれが見ても明らかでした。

これを、堂々と世の中に好事例(プロモーションなので、当然イメージアップのために)として世に出した神経が信じられませんでした。

 

彼の写真撮影の為に、他人に迷惑をかけて、そして謝罪もせずにそそくさと退散。

警察に指導されているシーンも映っていました。(呆れを通り越して何も言えない。)

すぐに動画を引っ込めるだろうなと思っていましたが案の定の対応。

 

まぁ、だれが見てもこの問題で最も愚かだったのは、富士フイルムでしょうね。

 

私自身以前から富士とは距離をおいてきたので、同様に嫌悪感を抱く方が増えるのは少し嬉しかったり。笑

 

写真家について

私は何の擁護もできません。

 

彼の生きざまそのものが彼自身であり、彼のアートだからです。

自身の撮影スタイルや哲学をプロモーションの一環で公開することを選んだのも彼です。

 

動画でご自身も言っていたように、以前は企業でも所謂エリート層で法令に精通されていたようです。

ですから、自身のあのような撮影スタイルが法令では罰することができないことを当然知ったうえで、自分の欲求を実現していたということですね。

 

残念ですが、法令上で問題無い事が必ずしも世の中に受け入れられるわけではありません。

 

私たちは1人1人みな違っている多様性の中で生きています。

ですから、いくら法令で罪ではないといえど、多数の非難で事実上潰されます。

(成熟した大人ならばその辺を失敗しながら学んでいるはずです。)

 

そして、問題が起きて世論がそれを課題だと認めると、それじゃあ規制しようかという話に繋がります。

 

確かに、彼の真に求める「ありのままの東京の内面」を撮影するには事前に被写体にコンタクトするわけにはいきません。

これは認めます。

 

ただし、撮影後に謝る、許諾を取る、最悪会釈するくらいの礼儀があれば彼の活動を脅かす社会の目の監視から逃れることができたのではないでしょうか。

撮影した後は必ず謝る、殴られるも警察呼ばれるも覚悟の上で誠心誠意被写体と対話する必要があったでしょうね。

 

海外のコメント意見で、若い女性や、海外の人(異国の言葉もわからない人は恐怖です)、何かをしていてすぐに苦情を言えないなど、弱者を狙っているのではというものがありました。

これも非常に重要な課題で、特にカメラ好きに多いオジサン世代はデリカシーのなさで度々企業内で問題視されます。(人のこと言えませんが。)

 

明らかに旅の思い出撮ってますみたいな人に写真撮らせてくれと言われれば、喜んで対応する人も多いでしょう。

 

でも、作品作りのために内側の景色をと言っていますが、見ず知らずの日本人からカメラを向けられるというのは、撮影された側からすれば撮られて何されるかわからないという恐怖感情が芽生えます。

極論を言えば、ナイフや銃を向けられているのと変わりません。

 

少し気持ち悪いけど耳の痛い話します。

町中の女性を撮影して、それを自宅に帰って可愛いなとか思いながらあらぬことをする男性もいるのではないでしょうか。

そういうことです。カメラは凶器になりえます。

 

撮る側の自由と撮られる側の自由の衝突は、絶対に無くなることはありません。

それは、だれもが平等に一人の人間として持つ権利であり、それこそが多様性だからです。

 

法令上問題ない、アートを守れ、史料価値になりうるとかいう意見もあれば、気持ち悪い、迷惑という意見も出るので互いの壁のせいで議論では永遠に収束しません。

 

ですから、加害者になりうる側がもっとうまくやってくれよというのが個人的感想です。

 

町中の防犯カメラも実質同じ機能のものですが不快感はそれほど与えていないことを考えれば、どうしても本当にどうしてもスナップを撮りたいなら、被写体に絶対にバレないようなカメラを使って撮影をするというのが現状の私の中の最適解です。

 

それくらい、あの撮影スタイルはリスキーでしか無いと思います。

 

現状では、Twitterでの過去の作品で男性の恥部が明らかに写っていた条例違反と思われる写真が拡散され、さらなる誹謗中傷が多く寄せられ、Twitterの投稿を全削除するという結末を迎えてしまいましたが、自業自得でしょう。

 

もちろん彼を潰すのもまた、ネット上の加害者達なのですが。(あえて言えば私も含む)

 

富士フイルムから切り捨てられ悲しい結末となってしまいましたが、富士フイルムを訴えて賠償金を請求するくらいたくましい方だと、まだ私としても救われます。

 

自身の撮影について

私もスナップ写真メインで撮るので、非常に今回の件で考えさせられました。

そして、自分の行動を振り返りました。

 

私自身は人の撮影は、そこまで興味はありません。

本音でいえば、撮られたくない人をわざわざ好んで撮りたくはない。

 

ただし、記憶の思い出を物質として残すための人の写真を撮ることはたまにあります。

いつも妻にはモノばかり撮ってないで家族を撮れ、撮ってもなんでモノクロなのかとよく怒られますが・・笑

 

話を戻して、しかしその撮りたいシーンに人が写ることはどうしてもありますから、この問題は無視できません。

 

私自身は、人の正面が映り込むときはカメラを長く構えて、気づいてもらうようにします。

そうすると、「顔は撮らないでくださいね。」とか言ってもらえたりコミュニケーションを撮ることができます。

 

それが正解かはわかりませんが、トラブル回避の為に無意識に実行していました。

 

しかし、問題が無いとは思っていません。

指摘があれば修正しながら、受け入れられる撮影スタイルで写真を撮っていきたいと思います。

 

何度も言いますが、条例で認められているからといって、他人を撮影、ましてや無断で公開したり、私的に楽しむだけでもかなり攻撃性が高い行為だと思います。

 

私はよっぽど撮りたいと思える決定的瞬間が自制心に打ち勝つことがない限り、赤の他人に対してシャッターを切ることはしないように心がけたいです。

 

写真とアートに対する考え

と、いうわけで本題です。

 

写真はアートか?

 

これは、撮影者の意識で変わります。

そして、アートにも数え切れないほどのジャンルがありますが、基本的には写真などの平面作品はビジュアルアートや現代アートに属されると思います。

 

アートを語るうえで大切なのが、リベラルアーツです。

以前何かの記事に書いた気がするので説明は省略しますが、アートとは芸術作品だけを指すのではなく、人間の作り出したものそのものです。

 

写真、絵画、音楽、法律、思想、みんなアート。

 

私自身海外のリベラルアーツを肌で感じて理解できているわけではないので、真の意味でのリベラルアーツの意図を汲めていないかもしれませんが、日本では教養であると訳されます。

 

アートもなんらかの学問の上に成り立つもので、思いつきでテキトーに気分良く書いただけの絵にはあまり価値はありません。

価格がつかないという意味ではなく、見応えが無いという意味です。

 

ピカソの絵を見て素人がまず思うのは、こんなの誰でもかけるということ。

しかしそれを素人が真似してもなんの中身がない絵にしかなりません。

 

ただし、だからといって芸術を体系的に学ぶ必要も無いと思います。

好きなものをひたすら見て、触って、感じて、自分の理論を発展させていくのがアーティストだと思います。

ただ、美術館で作品を見て、本を読んで歴史を学んでも、受動的ではアーティストではありません。

 

最近では、エクセルで絵を書くおじいさんも世界的に有名になっていると話題になりましたよね。

 

また、論理思考の人間が、その成長の過程で西洋絵画や中国古典等を学ぶのはごく自然なことです。

スナップ写真を極めたいなら、、それも同様です。撮影スタイルなどよく考え抜く必要があるでしょう。

 

思考を深める術もまた学問であり、アートというわけです。

 

一方で、そんなしょーもないことを考えて写真撮ってんのと呆れる人もいるでしょう。

しかし、そういう人は直感的に物事を見る根っからの右脳タイプの人だというだけで、自分の撮った写真を見れば、この撮り方いいなとか、あんなこと考えていたなとか、ちゃんとその人の心が宿っていると思います。

 

写真と対話しよう

写真についても、様々な見せ方があります。

 

私もただの記録としての写真、綺麗に残したい写真、コンテクストのある写真、そして思考の表現としての写真を意識して撮っています。

 

私はアートについては、消費するでも、鵜呑みにするでもなく、対話をすべきと思います。

 

特に写真は消費型コンテンツとして処理されがちです。また、こういう意図だよと発信者が説明しているいないに関わらず、そうだねという意見で終わるのでは、旨味を骨までしゃぶりつくせていません。

 

私は写真も、その奥に垣間見える撮影者の思考を読み解いて「これってこういうことだよね?」って間接的に作者と対話をする事のできる味わいの深いアートだと思っています。

 

そして、写真はいい意味でハードルがとても低くて好きです。

 

誰もが表現者になれて、作品を気軽にアウトプットできる環境があります。

そして、この空気感〜とか、この布感〜とか、なんとなくで通じる言葉があります。

 

私達日本人は、多くの方が正解を見つけなければいけないと思い込みながら生きています。

日本の教育が、解を求める問題が多いからだとよく言われますよね。

 

でも写真は、みんなで正解の無い感想を気軽に言い合える文化がある

これが、カメクラの皆さんとのかけがえのない、とても幸せだと感じれる場所です。

 

私自身は、人と同じものが嫌いなので、少し屁理屈のような理由をつけた写真を撮っています。

良く言えば、大衆的でなくマニアックなものです。

 

ある一例ですが、夜道で人の服に当たって反射した街頭の光は、レンズの像面で拡散させると点が何個で表現されるんだろうとか。

その時はレンズと対話しながら撮影をしています。

 

勿論構図だって露出だって意識していますが、そういった撮影者側の意図を、読み解くのがアートの醍醐味です。

 

あえて、ブレブレやボケボケなかっこいい写真を撮っている方っているじゃないですか。

しかし、ぱっと見で綺麗〜とか、何写ってるか分かんない〜とか私も最初はそう思っていました。

 

しかし、レンズの光の屈折の理論などを学ぶことで、その意図を想像することができるようになります。

高級ワインの奥深さを素人が理解できないのと同じです。(今頑張って勉強してます。)

 

今はまだ被写体が受動的ですが、やはり写真の魅力は保存に有ると思うので、今後は別のアート性を高めて、それを平面にアート性をもたせて保存するというスタイルにしたいと考えています。

 

そう思えば、SNS時代における写真は気軽に発信もできて、鑑賞、批評もできる最も身近なアートです。

 

「うーんこの光の柔らかさ」とか、「ボケの滑らかさ」とかそれっぽい事を言って気軽な「写真」というアートをこれからも多くの方と楽しみたいな。

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