そしてライカびとへ。私がなぜライカで写真を撮るのか、その理由を言語化してみる。

こんにちは!前のめり(@maenomelife)です!

 

最近界隈でにわかに盛り上がり始めている、 #ライカびと タグ。

ライカって高級路線で孤高の存在みたいなところがあるので、こういうライカ仲間みたいなの凄くいいなって思いました。

 

私はというと、IIIcをお迎えしたことで、M-E、M3、IIIcとライカが3台になりました。

また、フィルムカメラにも慣れてきたので、デジタルしか知らないときに読んでも半分しか理解できなかったライカ関連書籍を読み返したり、ブレッソンの映画「アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶」を借りて見たりしていたところでした。

 

そんなライカ熱が高まっているときに、なにやらTwitter界隈でも、ライカがよく話題に上がって来ている!

しかし、そこで感じたのが、ライカは好きな人はどっぷり好きなのに、関心がない人は全く魅力的ではないと賛否両論だということです。

 

私も昔は一眼レフにバズーカレンズを携えていたりしていたものですが、今ではライカかiPhoneだけです。

 

ライカは高画素化、瞳AF、手振れ補正、連写、高感度化などなど、もはや当たり前の機能とは殆ど縁が無く、現代においては高すぎるだけで殆ど機能的メリットもないカメラです。

 

しかし、そんなライカの魅力に取り付かれてからは写真を撮ることが更に楽しくなったのは間違いありません。

そこで、現時点での私の頭の整理をすることで、言語化するとともに、ライカのいいところをご紹介していければと思います。

 

Contents

私のカメラ歴はニコンから


Nikon Df + Tamron 70-200m F2.8 DI VC USD

私がカメラを手に取ったのは10年ほど前です。

最初はD300という中級者向けカメラでした。

よくいきなりそんなカメラを手に取ったなと自分を褒めたいくらい(笑)ですが、もともと機械が好きなのでそのモノの作りの良さに惹かれたんだと思います。

 

ニッコール千夜一夜を読み漁り、開発者の思いをうんうんと噛みしめながら、カメラにのめり込んで行きました。

当時は銘玉という言葉にはとても弱かった。。(汗)

 

ニコンのカメラは、写真を撮るという事において自分で写真をコントロールする楽しさを教えてくれました。

Aモードで絞りに対する写りの変化とか、Lightroomを使って現像とか。

カメラは楽しくないと、続かない。

これが最初の気づきです。

 

スマホじゃダメなんですか?


iPhone X

しかし、iPhoneXが登場し、ダブルレンズとなり光学的にも進化し、AI画像処理でボケ味を変化させることができるようになりました。

  

そもそも写真は、非常に情報量の少ない旧体系のメディアです。

今やスマホにとって写真は動画の中のほんの1フレームにすぎません。

 

スマホ世代の若い方は、バーストモードで連写しながら微妙に顔の角度やポーズを変えて撮ります。

もしくは、動画を撮って、そのなかの1フレームを選んで保存します。

iPhoneにあるLivePhotosだってやっていることは同じです。

これのおかげで、手ブレも目瞑りも防げます。既にカメラよりも優れています。

 

最近では、レンズを3つ4つと複数搭載したり、光軸を変えて配置する事でカメラの圧倒的メリットであったレンズの物量の壁すら突破しようとしてきています。

コンデジはとうの昔にスマホに喰われましたが、もう画質の面では、一眼レフすら危ういかもしれません。

 

多分、私がニコンじゃなくてキャノンとかソニーとかから入っていたら、iPhoneXが登場すると同時にカメラやめてたと思います。

(どっちも買ったけど、ほぼ使いませんでした)

カメラは楽しくてなんぼ。

 

画素数とか解像度とかに踊らされてない?


Leica M3 + Elmar f2.8/5cm

本来の35mmフィルムは低画質でした。

それは、引き伸ばし機でフィルムに焼き付けられた光子(フォトン)の跡をレンズを通して拡大しないといけないからです。

 

しかし、工学技術の進歩により、35mmフィルムでも十分に高画質が得られるようになりました。

そして、デジタル技術が生まれて、スキャナーで取り込めるようになると、より高解像に表現できるようになりました。

これで、理論上は精細にスキャンするほど高解像になるのですが、実際にはフィルムやレンズの性能により6400dpi程度で飽和してしまいます。35mm判で換算すると5500万画素程度です。

なので、フィルムカメラの解像の限界はこのあたりにあるでしょう。

 

一方、最新のSONYのカメラα7RIVは6100万画素になりました。

もうデジカメはフィルムカメラを超えた領域にいます。

 

でも、ここで少し考えます。

カメラで撮った写真を見るのは、スマホ?PC?

 

安心してください。この程度の画面サイズで見る場合、どちらも1000万画素もあれば大丈夫です。

高解像度は普通のスナップフォトをする人には必要ありません。

 

確かに最近の解像能力は本当に優れていて、FOVEONとかベイヤーとか素晴らしいものがたくさんあり、魅力的に見えてきます。

 

じゃあ、その解像はどこで役に立つのかというと、引き伸ばした時、等倍で鑑賞する時です。

広告写真や個展でA0サイズの写真など、写真を引き伸ばして使う用途はありますが、プロならともかく、ただの写真愛好家には必要あるのででしょうか。

私はせいぜいW四つ切、半切サイズにプリントして見るくらいです。

 

じゃあ、私たちが高解像で恩恵を受けられるのってどんな時か?

それは、トリミングをする時です。

 

4000万画素なら、1/4にトリミングしても1000万画素確保できます。

なので、常時28mmを着けてクロップ撮影を前提のスタイルなら高画素機はありかもしれません。

 

でも、トリミングってどうなの?って話は後ほど。。

 

確かに拡大して等倍で見れば、解像度は気になるかもしれません。

しかし、それが自分の表現したい作品を鑑賞するシーンを想像した時に必要でしょうか。

地デジのハイビジョン放送が始まった時にも、見えなくていいところまで見えてしまうみたいな。
そういう話ありましたよね。


プロではない一般写真家にとってカメラは自分のイメージを表現する道具です。

そう、私たちに必要な技術は70年も80年も前に完成してるんです。

 

レンズ性能に踊らされていない?


Leica M-E + SUMMICRON-M 35mm ASPH.

レンズってどんどん新しいものがでてますけど、実は性能が上がっているわけではありません。
センサーがどんどん高画素になっているので、それに合わせてレンズを作っているのだと思います。

 

そもそも、レンズは収差がないものが理想形だと思っている方も多いのではないでしょうか?

しかし、実際には収差が少ないレンズは平面的で写真的表現には向かないことがとっくに分かっているのです。

そういう収差の無いレンズは、例えば工場のラインで画像処理で選別したりするためのカメラ等に使われています。

 

レンズには意図的な収差を残して味を生み出す必要があるというのは、ニコンが解説してくれています。

 

 

ニコンは実際にこの味というものを定量化し、レンズ開発に活用しています。

基本的にレンズ設計には制約があり、例えば、ズームレンズはF2や2.8以上は明るくできないとか、そういうものは抱えつつも、単焦点と変わらない収差コントロールができるようになってきています。

なので、センサーの高感度化と合わされば、単焦点にも引けを取らない画質を得ることができます。

 

一方で単焦点レンズについては、勿論APOやArtなどと言った高画質レンズは開発されていますが、別に古いレンズだって、設計が悪くなければ全く現代においても問題なく使用することができます。

むしろ、コンピューター設計や、ユーザーの好みの統計等が進んでいる現代では、どうしても似たりよったりになりがちですが、全て手設計の頃のオールドレンズは、その味がより濃い目の味に仕上がっているのです。

好き嫌いあれど、ハマれば病みつきになるのはむしろオールドレンズなんですね。

 

写真の色と表現


Leica M-E + 7artisans 50mm f1.1

  

しかし、ここで取り上げたいのは、写真をどのように捉えているのかということです。

それは、再現か、表現かということです。

 

一般のデジタルカメラは圧倒的に再現派です。

色は光のスペクトルの波長の違いで変化することは科学で学ぶと思いますが、センサーは光をRGBで取り込みます。

なかなか見るものではないと思いますが、そのRGBの各波長毎の感度特性を表す分光感度特性というものがデータシートに記載されているのですが、大抵のデジカメのセンサーはRAWではRGBがバランス良く受光する特性カーブであることがわかります。

そして、その受光したRGBを記憶色という、きれいに見える色バランスに調整しています。
この記憶色も、各メーカーがユーザーに統計を取り決めているものです。

 

一方、ライカのカメラは表現派でしょう。

こちらが私の持っているLeica M-Eのセンサーの分光感度特性です。

Rが落ち込んでおり、青が強めに出ます。

これ、フィルムの分光感度(ネガはMCYKによる濃度)と似ているんですよね。


FUJIFILM 400PROH


Kodak PORTRA 400

なので、RAWの生データがフィルムっぽい色で保存されます。

ライカはフィルムの良さを大切にしているメーカー、というより、昔のレンズはフィルム、特にモノクロ前提の収差設計だったので、SONYのようなフラットなRGB特性のセンサーだと収差が発生してしまうので、昔からの互換性を考えるとこのような特性にするのが最適なのでしょう。

多分SONYでライカのオールドをつけると赤が強めになっちゃうんじゃないですかね?試したことはないですけど…

 

また、レンズからセンサーに届く光子は斜めに飛んでくるものが多くいます。

フィルムでは、斜めから光が入ってきても化学反応が起きるので、問題ありませんが、デジタルセンサーでは、うまく受光できず隣の素子に影響を与えたりします。

フィルム時代の光学設計ではそんな事は全く考慮されていませんから、ライカはセンサー側でうまく光を受け取れるように設計しています。

ライカはどこまでもフィルムをリスペクトしていることが分かります。

 

そのため、私は現にライカの写真は1枚もLightroomで補正したことがありません。

それは、ライカの表現する色(プリセット)がどれも完璧にアーティスティックだからです。

多分、気合を入れて色を表現する時には補正が必要ですが、幸いそんな機会はいまのところありません。

 

ニコンの頃はLightroomに取り込んで、補正することが当たり前でした。

というより撮って出しなんて1枚も使いません。

 

この差、結構大きいです。

 

写真は自分本意だからこそ意味がある


Leica M-E + SUMMICRON-M 35mm ASPH.

カメラもオーディオも時計も車もなんだって同じです。

最初は唯一の技術として生まれましたが、技術の進歩により、プロ用途か指向性の高いモノ以外は、廃れます。

レコードに刻まれた音に酔いしれ、歯車が時を刻むのにロマンを感じ、ギアとエンジンの鼓動を感じながらハンドルを握る。

 

カメラだって写りは勿論のこと、その機械的魅力が大きな要素としてあります。

決して不要な大型化はせずに、手に馴染むデザイン。

手に持つと分かる、ずっしりとした質量感。

そして、誰もが魅了されるシャッターやダイヤル、レンズの操作感。

決して主張するわけでなく、あくまで、撮影に集中させるための静寂で非の打ち所がない操作感。

 

ここまでの話で、好みは二分するでしょう。

1.現代の技術と、統計を活用し、ハイクオリティの写真を撮る

2.ツァイスやライカのようなMFレンズに恋をして写真を撮っている

 

ただ、この1.と2.には大きな違いがあります。

それは、自発的か受動的かということです。

 

技術が進歩するほど、人間の英知が体系化され誰もが使えるようになります。

AIが自動でボケを作ってくれるのも同じです。

しかし、それでは人間はただのカメラの言いなりにシャッターを押させられているだけではないでしょうか?

 

AFや、その他技術の補助を受けて撮った写真は、あくまで”撮れた”写真でしかありあません。

何かが写っていますが、被写体を捕らえたのは自分ではなく、カメラです。


逆に、自分で光を読んで、フォーカスを合わせる過程で、「自分と被写体」という関係性が構築されます。

そのような写真は自分で”撮った”写真になります。

 

このように、現代の技術の進歩のおかげで、ライカのような古典的カメラが存在価値を持つようになりました。

 

ライカで写真を撮ることは、筋トレのようなものです。

大変なんですけど、続けることで脳の表現能力が鍛えられます。

カメラは光子(フォトン)がレンズを通ってフィルムに焼き付き写真になります。

デジカメならフィルムがセンサーになって、受光するのに変わるだけです。

 

この、まさにアナログな光を意識できることが、表現力を高める重要な要素ではないでしょうか。

レンズのボケだって、フォトンがレンズを通った結果だし、色味だってフォトンがセンサーに当たった結果です。

 

つまり、行為としての写真が、私にとっては重要なのだと感じています。

 

再現する写真は、統計やAIによって画一的になり、個性が無くなります。

一方で、表現する写真は、全てが自由です。

 

デジタル現像が当たり前の今では、写真は撮るものではなく作るものになっています。

そういった中で最も大事なのは、どう現像するかではなく、何をどう撮るかです。

 

そのどう撮るかを自分で、決める最適な形をしているのが、ライカなのです。

逆を言えば、自分の意思が弱いと、ライカはろくに写ってくれません。

 

私も全然まだまだ使いこなせないんですけど、これが楽しいんです。

 

写真を何枚か載せていますが、どういう思いでフレーミングして、何のレンズを使ったかもはっきり覚えています。

ライカはレンズや絞り値のexif情報は残りません。。

 

記録であれ、表現であれ、時間は二度と戻ってきません。

だからといって、ピントがバッチリで綺麗に残さなきゃいけないなんて事はありません。

ピンぼけだって立派な思い出です。

 

その、不可逆的時間を自分視点で切り取るのが写真だとするのだとしたら、

綺麗に残したいのか、情緒的に残したいのか、一度考えてみてはいかがでしょうか。

 

カメラは、どう撮れるかではなく、どう撮るか。

自分の意思で撮れるカメラは私はライカがベストだと思います。

 

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コメント

コメント一覧 (1件)

  • 興味深く読ませていただきました。
    私はM11とニコンのミラーレス機の両方使って写真を撮っています。
    それぞれ、使うときの心情は異なっていて、ライカで撮影するときは、視野が解放されていて、明るい広角レンズで世界を見ているような感覚になります。一方、ニコン機を使用しているときは、望遠レンズのような狭い画角で世界を見ているような感覚になります。
    これは、どちらが良いということではないと思っていて、写真に対する向き合い方と、それが写真にどう表れるかの違いになってくるのかなと思っています。
    ライカは、特に撮って出しに対する信頼感が大きく、ピントリングを回してシャッターを切るだけで、ライカは応えてくれる感覚。仰られている行為としての写真でしょうか。行為から始まると言っていいかもしれません。ですから、私は心の赴くままに撮影したいときにライカを使います。散歩に出かけて、綺麗だなと思った花を何気なしに撮ると、その感覚のままの絵をその場で出してくれます。それが最高の癒しですね。
    ニコンは写真機として本当に優れていると感じています。操作系、グリップ、そしてファインダー。ミラーレスになって、露出やピントの失敗もほとんどなく、手振れせず、ISO感度も相当上げても気にならなくなりました。だからこそ、それを使うときに求められるものは大きいと感じています。記録するには最高ですが、表現するという場面では、ほとんどのことをカメラがやってくれる分だけ「どう表現するかはあなた次第」というプレッシャーを感じます。24-200mmレンズを付けて、現像すれば撮れないものはあっても、表現できないものはほとんど無いでしょう。それはとても良い写真機ということなのだと思います。ですがその結果、ニコン機を使うときは自分の表現に固執することになり、視野が狭くなってきます。受動的にならないようにそうするわけですが、結局機材に振り回されるイメージですね。
    すると、後で写真を見返したときに、満足できる写真というのはライカのほうが多かったりします(もちろんピンボケ、露出オーバーなど沢山あります)そのあたりがライカの素晴らしいところだと思います。
    ちなみに私もD300のSですが、現役です。今でもいいカメラだと思っています。

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